さっきの投稿

改めて自分の投稿見返してたら語尾とか文章の感じがまとまりなさすぎてやばいよね!自分の文章力の無さが露呈されている…

 

自分がこれ書いてるのはガチで気まぐれだからバーっと書いて投稿みたいな感じだけど流石に読み返して修正したほうがいっか?

 

だけどこのブログの自分の趣旨的には自分の考えをそのまま文章にしたいからそのままの方がいい気もしなくはない…

電車にいるヤバい人

電車に乗っているとヤバい人に遭遇することって結構あるよね。(まあヤバい人って言ったら失礼なのかもだけど…とか色々考えたけど自分からすればただの電車で居合わせてヤバい人でしかないのでヤバい人と書き続ける)

 

今日電車に乗ってるとサラリーマン風の男が起きて、駅降り過ごしたらしく「え、もう〇〇?」「過ぎちゃったじゃん」「終電間に合うかなあ」などと叫んで、突然泣き出したり、電車のドアを手で叩いたりしてた。

 

こういう時いつも自分が思い浮かんでくる言葉が「多様性」である。多様性っていうのは難しいよね…

 

人間という生き物は社会でお互い支え合って生きていかないと生きれない生き物である。だから多様性を受け入れることは重要なことなのであろう。だけど多様性は大事と言っても真の多様性を受け入れるのは果たしていいことなのだろうか?

 

人間は良くも悪くも他人を差別する生き物である。この時点で真に多様性を受け入れる社会というのは構築不可能であろう。ただ、多様性という風潮が出来上がりことで表立って差別しにくくなることは良いことなのだろう。

 

なんか適当に色んなことを考えすぎて自分でも何を書いているのか分からなくなってしまった。自分の頭の悪さが露呈してしまう…

 

最後に一つだけ…

 

人間の社会には社会通念っていうものがある。その社会通念の中で生きている人達の多様性は社会に受け入れられるが、それの外に存在する人々は一体どうなのだろう?これは自分がコンビニ人間を読んだ時に初めて自分に問うた質問である。また機会があったら考えてみたいと思う。

始めた理由

なんでこのブログを始めようと思ったのだろう?自分で考えてみてもよくわからない。まあ言っちゃえばノリと勢いなのだ。

 

昔から本が好きだった。自分でも文章を書いて、自分を表現したいという欲求があった。しかし、それを満たすための勇気はなかった。ただ、さっき小説を読んでて自分も何か文章を書けるようになりたいと思ったのだ。自分もこういうとこで文章を書き続けたら文章を書くのが上達するのではないかという甘い考えがあるだけである。その欲求が勇気の無さよりたまたま大きくなってしまったのだ。

 

自分をさらけ出すというのは怖いことだ。こういう文章などを書いたとしても他の人間にみられるのが嫌だった。だけど自分を見て欲しい、知って欲しいという欲求もある。文学などの芸術作品に自分の生きた痕跡、自分の考えの痕跡を残したい!という欲求もある。 なんてわがままなんだろう。

 

ここなら、例えば自己満であっても自分の好きなことを適当にかけるんじゃないかと思った。最終的な理由はきっとただそれだけなのである。きっとこのブログに統一性なんてものはないだろう。なんならこの投稿自体にも統一性はない。ただセンスもないやつが適当に気ままに文章を打つだけなのだから。

 

ブログのタイトルやユーザー名なんてセンスの無さの表れである…